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罪のない罪と罰

無邪気という言葉がある。
邪気がないというが、本当にそんなことがあるのだろうか。
少なくとも物心がついた頃からの私は、邪気の塊だった気がする。

物心つく前の頃にしか無邪気という言葉は当てはまらないような気がする。

一人寂しく歩く事によって、親の愛を確認しようとした事は数知れず、それが行き過ぎて迷子になった事も数知れない。

困らせる事によって何かを確かめる時、決まってそ知らぬフリをしていた。
それは振りであり、子供ながらのあざとい計算だった。

気に入らない奴が、かくれんぼしようぜーなんて皆を集めて、遊び始めた時も、タイミングのいい、一抜けた攻撃で、そいつのイニシアティブを叩き壊した事もある。

当時流行っていたロボットマンガに出てくる剣を、拾ってきた木で珍しく上手に作ったときも、近くに住む手癖の悪い友達にそれを見せびらかし、そいつの目がほしそうに、鈍く光るのを楽しんでいた事もある。案の定その剣は盗まれた。

無邪気なフリをしてれば喜ばれる。可愛い奴だと思われる。

いつしかそれが出来なくなったときがある。可愛い自分でいられなくなる。何もかもに臆病だった僕は、大人に喜ばれる為の笑顔さえ出来なくなって行った。そこにまつわる邪気に絶えられなくなったのかもしれない。

この世の中に邪気のないものなどないのだ。

だから、赤ん坊がお乳を飲む姿や、小さなことで笑う姿に、心が癒される。

物心がつき一人で歩き出した時から人は邪気をまとわなければ生きていけないのだ。

ある時テレビを見ていたら、外国で子供たちが可愛がっているカエルのレースがあった。子供たちの手塩にかけたカエルを持ち寄り、レースをするのだが、ある少年は、スタート直後2回ほど跳んだカエルを突然踏み潰した。開場は悲鳴に包まれるが、そこには無邪気に笑う少年がいた。あのときの彼の笑顔は、本当に邪気がなく、子供が邪気の塊である事を証明していた。

彼は人のもつ裏腹な心を見事に表現して見せた。

そういう意味で彼は無邪気だった。

ねたみ、そねみ、隣の芝は青いのだ。

そんなことは考えてはいかんのだと、理論で武装し、不感症を装っても、人の持つ根源的な邪気は拭い去る事はできない。

大人になり、社会に加わると、全てはおぞましいほどの邪気に包まれる。

そんな邪気をあからさまにぶつけられた時、僕の中の邪気は、激しい闘志に包まれる。

邪気の暗い海の中を、冷たい輝きを放つ社会のルールにしがみつき、何が正しいのか思い知らせてやるという闘志が燃えてくる。

子供のような大人だらけのこの世の中で、無邪気を装う人間ほど信用のならないものはない。

誰もが幸せになる為には、不幸せな人間が必要になる事に気付く邪気が必要なのだ。

不慮の事故があり、不幸なことで死んでしまう方がいるから、今の自分の幸せがあるのだ。

そのことに目をつぶらない邪気が必要だ。

いつか自分が不幸な目に会っても、それが誰かの幸せになるのならばそれは幸せなのだとは決して思わない強い邪気があるのならば、幸せになれるのかもしれない。

もっともそんな幸せなら。いらないけどね。

邪気溢れる。日記となりました。

ねっとりとした夜の罰が下るでしょう。

by biritake | 2007-12-11 00:22  

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